唐津くんち縁起

      2017/03/24

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唐津神社に祭られている神様は住吉三神、神田宗次公、水波能女神となっていて、
水の神様に交じって神田宗次公という歴史上の実在の人物が祭られています。
神田(こうだ)氏については、当地の豪族だったということくらいしかわかりませんが、
唐津神社の縁起に、こういうことが書かれているそうです。
天平勝宝7年(755年、考謙天皇時代)9月29日、時の領主の神田宗次公がある晩、神夢をみて、
海浜に行ってみたところ、波間に筐(はこ)が一つ浮かんでいました。
… 「これはまさしく、神功皇后が三韓征伐(西暦200年)のおり祀られた宝鏡にちがいない」と驚いた神田宗次公は帝に報告しました …。
この時、帝から「唐津大明神」の神号を賜り、神田宗次公は唐津神社を創建した。
とあります。

6~7世紀、大和政権は天皇家と姻戚関係にあったとされる(今上天皇言)百済王を助けて、
何度か新羅と戦っています。
派遣軍の司令官大伴金村の子大伴狭手彦と松浦佐用姫の悲恋伝説は源氏物語にも取り上げられていますが、
これは537年のこととされています。
最後の新羅と唐との戦いは百済が滅んだ2年後、
663年の白村江の戦で、このときは10000人の戦死者を出し、
大和政権は惨敗しています。
これは天智天皇の時の史実ですが、
せいぜい数百万人の人口で、1万人の将兵を朝鮮半島に派遣し、
大半が帰らないということは大変な事態だったと思われます。
日本書紀にいう神功皇后の三韓征伐は200年とされていますので、
この頃はまだ新羅は成立しておらず、史実ではないようです。
神功皇后は天智天皇のお母さんの斉明天皇か、子の持統天皇のことだろう、
いずれも女性なので、まとめて神功皇后としたのではないかという説があります。
古事記、日本書紀は藤原氏の創始者不比等によって史実を改変したものだという説も聞いたことがありますが、改変の理由はこのあたりにあるのかもしれません。
百済滅亡、百済からの大量移民、天皇家と百済王族との関係、
新羅・唐連合軍に惨敗、、その後の大陸との政治的・軍事的緊張状態。。

663年の白村江の戦以後は、唐が日本に攻めてくるのではないかという懸念の元、
大宰府防衛の水城築城や遷都も行われていますし、
防人(先守:西の先を守る東国人)の税としての徴用。
遣唐使も頻繁に派遣され、外交交渉も行われたようです。
このように歴代朝廷は唐との緊張関係が続いていることをとても心配していたのでしょう。
90年以上もです。

755年になって神田宗次公が海の神様から宝鏡を返されたということは、
もう唐は攻めてこないから安心してよいという情報だったのでしょう。
なぜなら、755年には唐では安史の乱が起こり、北方民族の侵入、
楊貴妃は殺され玄宗皇帝は行方不明になるなど、内乱が起こり、
唐は日本に攻めてくる余裕は無くなったからです。
神田(こうだ)氏は当地の豪族で、半島との海上交易ルートを持っていたのでしょう。
唐津(からつ)とは半島南部にあったという加羅(から)に至る津(みなと)という意味があるとも言います。

唐に内乱が起こったという吉報?を縁起としている唐津くんちは、
遠い昔の中国や朝鮮半島での戦争や侵略の心配を起源としているのです。
・・などと、当時の東アジア情勢に思いを馳せると感慨深いものがありますね。。

現在もなんとなく似ていませんか?

 - ドクターのつれづれ。