歯科医院長mabo400のブログ

I歯科医院の高楊枝通信。

令和2

 
この記事を書いている人 - WRITER -

ネット上には、本当かよ、、wみたいな書き込みがありますねw

「令和」は万葉集からの出典とされたが当該の序文は後漢時代の政治家・詩人・学者の張衡の漢詩「帰田賦」を引用したものであった。しかも内容は「安帝の政治腐敗に嫌気がさして春の良い季節だし田舎に帰ろうか」といったもの。「安」帝とは安倍政権を指し、新元号は知性を生かして判る人にだけ判る痛快な批判であった。

張衡という人は日本で言えば漢の倭の奴の国王の金印時代の人で、歴史の教科書的には地動儀という地震計を発明した人として有名です。

Wikiより引用

張 衡(ちょう こう、78年 – 139年)は、後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。

目次
1 経歴
2 登場する作品
3 脚注
3.1 註釈
3.2 出典
4 関連項目
5 外部リンク
経歴[編集] 没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、太学で学んだ。永元14年(102年)、南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)となった。永初元年(107年)には、洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著した(これらを総称して「二京賦」という)。当初は南陽で下級官吏となった。永初5年(111年)、京官の郎中として出仕した。元初3年(116年)、暦法機構の最高官職の太史令についた。建光2年(122年)、公車馬令に出任した。永建3年から永和元年(128年 – 136年)の間、再び太史令を勤めた。最後は尚書となった。
30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算罔論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。安帝末期から始まり順帝時代まで続いていた宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」「四愁詩」「同声歌」がある。
張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという[1]。
そのほか、彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。
月光生于日之所照、魄生于日之所蔽;当日則光盈、就日則光尽也。
また続いて以下の記述があり、
当日之冲、光常不合者、蔽于地也、是謂暗虚、在星則星微、遇月則月食。
張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。
月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。
登場する作品[編集] 張衡を扱った作品に1983年の中国映画『張衡』がある。
『青春の尻尾』(小学館、全6巻(1975年 – 1978年) 小池一夫原作、平野仁作画)に主人公である諸葛亮公明をわざと強い言葉で批判して諭す賢人・発明家として登場。ストーリーの中で『地動儀』も描かれている。

この記事を書いている人 - WRITER -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。

Copyright© I歯科医院の高楊枝通信。 , 2019 All Rights Reserved.